國學院大學栃木中学・高等学校

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高校保護者の皆様へ

生徒・保護者の皆様へのメッセージ(2)

    生徒・保護者の皆様へのメッセージ(2)    

【夢はどこまでも続く(1)】

 今年開催予定であった東京オリンピックは、残念ながら延期になってしまいましたが、7人制女子ラグビーのオリンピック代表候補に本校ラグビー部出身者、田中笑伊さん、松田凜日さんの2名が選ばれたことは本校の誇りとするところです。その彼女たちの活躍もあって、女子のラグビー部は3年前に日本一になりました。本当に嬉しく思いました。私にとってラグビー部の「日本一」という言葉には、特別な思いがあったのです。

 それは今から30年前以上も前のこと、時代はまだ昭和でした。本校でも兄弟校の國學院久我山高校に続けとばかり、ラグビー部を作るため、久我山ラグビー部出身の教員が指導者としてやって来るということを聞きました。そして、いよいよ新年度になり数名の生徒が加入し、活動が始まりました。最初はそれほど気に留めてはいませんでしたが、私のクラスの生徒4名が、いつの間にかそのラグビー愛好会に入っていたのです。(部に昇格するためには、愛好会から始め、数年後に同好会、さらに数年間の活動を認められることが条件です。)その4名のうち2名は前期・後期のホームルーム委員、他の2名も前期・後期の体育委員で、言わばクラスの中心人物です。現在の状況など予想もしませんでしたから、正直、生徒たちを預けて大丈夫だろうかと思っていました。

 そのような私の様子を察してか、監督の吉岡先生は、私に何とか理解してもらおうと自宅に何度となく来ては、ラグビー部の方針を熱く語ったのです。私はその熱意に打たれ、部活動としての在り方について徐々に理解していきましたが、その中で、最終的にこの監督に彼らを任せようと思った決定的な言葉がありました。それは「日本一になる」でした。普通は、「全国大会出場」というところかもしれません。意表を突かれました。花園出場を飛び越え、「日本一」ときたわけですから。まだ、愛好会です。グラウンドもありません。今でこそ、立派な人工芝のグラウンドですが、自転車で15分くらいの距離にある大平町の日立工場のグラウンドを借り、暗くなると監督の自動車のヘッドライトで照らして練習していた時代です。その困難や苦労を乗り越えていこうという覚悟がある、それも、よほどの覚悟がなければ言えない言葉であると思ったのです。そうして私は出来るだけのバックアップをすると約束したのです。その後、4名の生徒たちは、それぞれ主将、副主将、トライゲッターのウイング、スクラムの要となり、クラスだけではなくラグビー部でも中心となっていったのです。

 当時、栃木県の高校ラグビー界は佐野高校と作新学院高校の2強でしたが、努力の甲斐あってチームは、その2校以外の高校には勝てるようになっていました。そして、昭和から平成になった年度、彼らも3年生となり、11月の全国大会いわゆる花園出場を決める最後の大会に臨みます。そこで、順当に勝ち上がり(大会中でしたが、特例で部に昇格)、いよいよ準決勝、2強の1校である佐野高校との対戦になりました。ところが先ほどの4名のうち、1人は腰を、また、エースであるウイングの1人は膝の靱帯をかなり痛めてしまったのです。特にウイングの彼は、お医者さんに無理して出場しない方がよいと言われてしまったのです。しかし、本人の強い申し出で強行出場。何とか強い精神力でプレーし続け、皆もカバーしながら試合を進め、一進一退の試合展開、ところが、さらに大変なことが起こったのです。前半でフルバックの選手が、手首を骨折、前の試合で肋軟骨を骨折したらしく、そこをかばったために無理なプレーをしてしまったのです。骨折した彼は、プレイスキッカーという大事な役を担っており、彼の抜けた穴は大きかったのですが、それでも何とか前半は5点ビハインドのまま終了。後半、まさに魂のこもったプレーの連続で、代わりに出場した2年生も奮闘、そして、最後に見事な逆転劇を演じ、16対14の歴史的な勝利をあげるのです。
 決勝戦は、対作新学院高校。手首を骨折した生徒は、当然出場できず、前回の怪我をしていた選手たちも痛み止めを打っての出場という状態でした。それでもチームは最後まで諦めず果敢に戦いましたが、結果は0対24、敗れました。しかし、この試合をテレビ(当時はTBSで放映していました)で観て、國學院栃木のラグビー部に入りたいと入学してきた生徒たちが、3年生の時に初めての花園出場を決めるのです。
  さて、彼らの話をもう少し続けます。当時も0時限授業があったのですが、始業前の7時55分から8時25分で行い、私も英語を教えていました。希望制と言っても全員出席しており、彼らラグビー部員たちも一日も休まず出席、試合の翌日も当然のように来ていました。ただ、1名靱帯を痛めていた生徒だけはいなかったのです。かなり、大きな怪我でしたし、医者に行ってからでも来るのかなと思っていました。しかし、8時少しを過ぎた頃だったと思います。ガラッとドアを開けて、彼が入ってきたのです。私の前に来るや否や「すいません」と謝ってきました。課外授業は始まっているものですから、私も特にああだこうだ言わず、すぐに座らせて授業をそのまま続けました。彼を見ると足を引きずっていました。自転車小屋から南館5階まで上がってくるのは相当長い登りの距離です。かなり大変だったでしょう。それでも遅れまいと必死に上がってきた様子が分かりました。私もぐっとくるものがありましたが、そこは何とか堪え授業を続けました。
 彼らに対し、特に大きなプレッシャーをかけた訳ではないのですが、かなりの量の宿題も常に期限に間に合わせていましたし、こうした特別の課外授業にも必ず出席していました。それは文武両道というのとは少し違っていて、大学に入るために勉強も頑張るとかではなく、ラグビーを通じて培った姿勢、つまり全ての事に対して全力で向かっていくということを、彼らは身に付けていたのでしょう。とにかく目の前にあるものに対して手を抜かない、手を抜くようなことは彼らのプライドが許さない、そうした人間に育っていったのです。
 では、彼ら4人、そして手首を骨折した彼はどうなったのか、続きは次回に。

校長   青木一男